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2015.10.19

東京近郊のお勧めゴルフ場

ゴルフ

東京近郊には、大正時代や昭和初期に開場した歴史のある名門ゴルフ場がいくつかあります。いずれのゴルフ場も、明治時代に海外に留学し、ゴルフの研さんを積んだ日本人のトップアマチュアが設計しているという共通点があります。いずれのゴルフ場もコースとしては一流です。ですから、過去において、何度もゴルフトーナメントの会場になっており、ゴルファーならば一度はプレーしてみたいはず。今回はそんなゴルフ場をご紹介しましょう。

1)東京ゴルフ倶楽部

埼玉県狭山市にありながら、なぜか「東京」と名乗るゴルフ場。というのも、もともとは現在の駒沢オリンピック公園で1914年(大正3年)に9ホールでスタートしたからです。その後、2度移転して現在の場所に移りました。東京ゴルフ倶楽部は、日本で初めての日本人による日本人のためのゴルフ場です。発起人は日銀総裁、大蔵大臣を歴任した井上準之助や、薩摩藩士で後に警視総監や海軍大臣を務めた樺山資紀(かばやますけのり)の子息で実業家だった樺山愛輔ら、当時の政財界の指導者たちでした。

関東大震災などの影響を受けて、1930年(昭和5年)、東京ゴルフ倶楽部は埼玉県の朝霞に移転します。朝霞コースの設計を担当したのは、日本を代表する名門コースの川奈ホテル富士コース(静岡県)や廣野ゴルフ倶楽部(兵庫県)の設計を手掛け、アリソン・バンカーでも知られるC.H.アリソンでした。「海外にも負けない名門コースを作りたい」という、東京ゴルフ倶楽部の願い通り、アリソンは東洋一美しいと言われたゴルフコースを完成させます。しかし、1941年に太平洋戦争が始まると、朝霞コースは陸軍士官学校建設地として接収・閉鎖されてしまいます。大変な苦境に立たされた東京ゴルフ倶楽部は、メンバーでもあり、朝霞への移転でも尽力した大谷光明(おおたに・こうみょう)がコースを設計し、ちょうど造成中だった秩父カントリー倶楽部と合併することで3度目の移転を果たします。それが現在の東京ゴルフ倶楽部です。

大谷光明は京都西本願寺第21代門主の三男でイギリス留学の経験がありました。トップアマとしても知られており1922年の日本アマ選手権で優勝するほどの腕前です。東京ゴルフ倶楽部のほかに、川奈ホテル大島コース、名古屋ゴルフ倶楽部和合コースを設計しています。大谷の手で設計された狭山の東京ゴルフ倶楽部では、過去4回ほど日本オープン(通算では7回)が開かれています。米ゴルフ雑誌が選ぶ世界のゴルフ場ランキング100選で93位(2014年)にランクインするなど、世界的にも高い評価を受けています。

東京ゴルフ倶楽部
埼玉県狭山市柏原1984
コース 36H(朝霞OUT・IN、知々夫OUT・IN)設計者大谷光明

2)程ヶ谷カントリー倶楽部

ゴルフ好きの人なら恐らく一度ぐらいは、赤星四郎、六郎という、赤星兄弟の名前を聞いたことがあるでしょう。赤星兄弟の父親は鹿児島県の出身です。薩摩藩の海軍御用掛を経て、日清戦争後は、軍艦に取りつける銃器などを扱うイギリスのアームストロング社の代理店を営み、巨万の財をなした人物。その赤星家の四男、六男として生まれた赤星四郎、六郎の二人は、東京の麻布中学を出ると高校からアメリカに留学、最終的に四郎はペンシルベニア州立大学に進学し、六郎はプリンストン大学で学びました。二人ともスポーツマンで、四郎はアメリカンフットボールの選手として活躍し、六郎は1924(大正13)年、ノースカロライナ州パインハーストCCで開かれたゴルフトーナメントで優勝。海外の大会で日本人が初めて優勝するという記録を作りました。

兄の四郎が設計したコースの一つが神奈川県にある程ヶ谷カントリー倶楽部です。1922年(大正11年)に開場しました。1927年に始まった日本オープンの最初の競技場となりました。第1回大会では、アメリカから帰国したばかりの弟の六郎が優勝しています。程ヶ谷カントリー倶楽部は日本のゴルフ史上で初めて「本格的な18ホール」を備えたゴルフ場と言われました。兵庫県の六甲山の山間にできたゴルフ場も18ホールありましたが、アウトとインを合わせても3700ヤードしかありませんでした。一方、程ヶ谷カントリー倶楽部は1931年当時で6170ヤード、パー69のチャンピオンコースでした。安田幸吉、浅見緑蔵といったプロゴルファーたちは、程ヶ谷カントリー倶楽部のキャディー出身。中村寅吉、小野光一、河野光隆など後の日本のゴルフ界を背負ったプロゴルファーを多数輩出しています。1967年に現在の場所に移転しました。丘陵地帯に造られた林間コースは、昔の面影を残し、アンジュレーションに富んだ戦略性の高いゴルフコースに仕上がっています。ちなみに元のゴルフ場跡地は横浜国立大学の常盤台キャンパスとなっています。

程ヶ谷カントリー倶楽部
神奈川県横浜市旭区上川井町1324
コース18H 設計者赤星四郎

3)相模カンツリー倶楽部

弟の赤星六郎が設計した日本を代表するゴルフコースです。1931年(昭和6年)に開場しました。戦前に造られ、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースなど、名門コースが戦争でどんどん潰される中、なんとか戦火を逃れて残った6コースのうちの一つ。赤星六郎は戦前に発行されたゴルフ雑誌の中で、「ゴルフコースは、一個の芸術として完成されたものでなければならない。設計者その人の性格の表現であり、夢をコースによって具現化することなのである」と語っています。まさに相模カンツリー倶楽部は彼の『夢』そのものなのでしょう。プロよりも強かった日本屈指のエリート・アマチュアゴルファーが本格的に設計に取り組んだ名コースは、敷地が狭かったこともあり、現在のチャンピオンコースと比較すると距離は短いのですが、グリーンは固く小さく、サンド・ウェッジが発明される前の造成にも関わらず、深く切り立つバンカーが多数配置されています。赤星六郎が残したもう一つの名門コース、我孫子ゴルフ倶楽部と共通する特徴です。第1回日本オープンでプロに10打差をつけて優勝するほどの技術を持っていた赤星六郎の設計ならではなのでしょう。戦前に一度日本オープンが開催されました。日本プロゴルフ選手権も3度開かれています。

相模カンツリー倶楽部
神奈川県大和市中央林間西7-1-1
コース18H 設計者赤星六郎


(写真=PIXTA)

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